Albert King(アルバート・キング)そのフライングVから繰り出す至高のチョーキングに世界がひれ伏す!
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http://bosssikirock.blog79.fc2.com/blog-entry-96.html
ロックシーンにも多大な影響を与えたスリー・キングスの一人
アルバート・キングは1923年4月25日、米国ミシシッピ州インディアノーラで生まれた。13人兄弟の内の一人だった。
彼が8歳の時に一家はアーカンソー州フォレストシティに移住。この頃既に彼は中古のギターを手にしていた。
左利きの彼は右利き用ギターをそのままひっくり返して練習した。弦の上下は逆になるが、彼は死ぬまでずっとそのスタイルを通した。
数年後にはバンドに加入。成長してからは、ブルドーザーの運転手をしながらクラブで演奏し、ゴスペル・カルテットのシンガーも務めた。
長い長い下積み時代
50年、彼はアーカンソーのオセオラにあるクラブのハウス・バンドのメンバーとなる。
そのバンドではローカル局のラジオ番組にも出演した。53年にはインディアナ州でジミー・リードとジョン・ブリムのバンドにドラマーとして加入。この頃にアルバート・キングと名乗り始めた。(本名はアルバート・ネルソン)
これは、B.B.キングの影響だったという。また ウィリー・ディクソンにも出会っている。ディクソンはキングをシカゴのパロット・レーベルに紹介、こうして54年に初めてのシングル「Be on Your Merry Way」がリリースされた。
彼は56年にセントルイスに拠点を移し、58年からボビン・レコードに吹き込みを始める。ギブソン・フライングVを使い始めたのは この頃のことである。
61年になって、キング・レコードが彼のシングル「Don't Throw Your Love on Me So Strong」を全国発売、ビルボードR&Bチャート14位のヒットとなる。
62年には初のアルバム「Big Blues」もリリースされた。しかし大きなブレイクに繋がることは無かった。
ブルース・ギターからロック・ギターへの流れを作る
66年、キングはスタッカス・レコードと契約する。そしてハウス・バンドであるブッカーT.&ザ・MG’sをバックに「ボーン・アンダー・ア・バッド・サイン」「オー・プリティ・ウーマン」「クロスカット・ソー」などのシングルをリリースしていく。
67年にはそれらのシングルを含んだアルバム、「ボーン・アンダー・ア・バッド・サイン」を発表。この作品は多くのロック・ギタリストに多大な影響を与える事となった。
クリームが「ボーン・アンダー・ア・バッド・サイン」を、フリーが「ザ・ハンター」をカヴァーしたことからも その影響の大きさが分かるし、逆に彼らがカヴァーすることによって、キングの知名度は白人ロック・ファンの間に浸透していった。
68年からはサンフランシスコにあった最先端のライブ会場、フィルモア・ウェストに出演するようになり、それもまた多くのロックファンへのアピールとなった。
同時にニューヨークのフィルモア・イーストにも何度も出演している。同年、フィルモア・ウェストでのライブ・アルバム「Live Wire / Blues Power」、69年には「Years Gone By」「Blues for Elvis : Albert King Does the King's Things」、71年には「Lovejoy」、72年には「I'll Play the Blues for You」とアルバムリリースも続いた。
画像引用元
http://blogs.yahoo.co.jp/koji7544/64476603.html
聖者の行進に送られて・・・
スタックスは70年代半ばに倒さん、キングはRCA傘下のユートピア・レーベルに移籍した。2枚のアルバムをリリースした後、78年にはトマト・レコードと契約。この年には、B.Bキングとのカップリングで初来日公演を行っている。
81年には日本人ブルース・シンガー、大木トオルと共演。アルバム「大木トオル ブルースバンド Featuring アルバート・キング」を残した。
83年にはファンタジー・レコードに移り、このレーベルから発表した「San Francisco'83」と「I'm in a Phone Booth,Baby」はグラミー賞ににノミネートされている。また、83年にはその年にデビューし、世界を席巻していたスティーヴィー・レイ・ヴォーンと共演(スタジオ・ライブ)し、その音源は後に「イン・セッション」としてリリースされた。
画像引用元:http://leopard.air-nifty.com/offending_instruments/2010/11/albert-king-wit.html
この年、「ブルースの殿堂」入りも果たしている。85年には引退宣言をしたが、その後も活動を続けた。
89年には再び来日、ジャパン・ブルース&ソウル・カーニバルに出演している。(この時もB.Bキングが一緒だった)90年には ゲイリー・ムーアの「スティル・ガット・ザ・ブルース」にゲスト参加。
91年には最後となるアルバム「レッド・ハウス」をキャッスル・レコードよりリリース。しかし、92年12月19日のロサンゼルスでのライブが彼の最後のパフォーマンスとなった。2日後の21日、メンフィスの自宅で心臓発作のため69歳で逝去。
大きなヨーロッパ・ツアーを控えてのことだった。
葬◯では ジョー・ウォルシュがスライド・ギターで「アメイジング・グレイス」を演奏、その後 参列はメンフィス・ホーンズが演奏する「聖者の行進」をバックにメンフィスのビール・ストリートを行進した。
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キングのプレイスタイルと機材
彼のプレイの中で、特にチョーキングはブルース・ギタリストのみならず、多くのロック・ギタリストに影響を与えた。
スケールの大きさがあり、それでいて色気を感じさせる。そしてただの1音でもブルースの持つ深みや様々な感情を表現する事ができる。
その至高のチョーキングが彼を唯一無二の存在したといってもいいだろう。トレード・マークはギブソン・フライングV。58年に発売された、当時としてはかなりエキセントリックなシェイプを持つギターだった。
彼の物は59年製で「ルーシー」という名前が付けられていた。70年代はじめ頃からは、
ダン・アールワインが制作したフライングVタイプを愛用した。このギターはレスポールタイプのヘッドを持っており、そこには「LUCY」とロゴが入れられていた。
また88年には65歳の誕生日を祝って、ZZトップのビリー・ギボンズからフライングVタイプのギターをプレゼントされている。これはトム・ホームズが作ったもので、指板にキングの名前がインレイされている。彼はこの「ルーシー」も愛用した。
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