ギタリスト大百科

私の知っているギタリストや好きなギタリストをご紹介していきます。たまにギターや音楽と関係無いことも書きますm(_ _)m 最終的にギタリストの広辞苑みたいになればいいなと思っとりますが 多分ごちゃまぜブログみたいになると思います(笑)

Angus Young(アンガス・ヤング)ギブソンSGを片手に半ズボンのブレザー姿で暴れまくるギター小僧

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画像引用元:http://heavymetalword.blog.jp/archives/1010565977.html

AC/DCの結成に至るまで

1955年3月31日、アンガス・ヤングは英国スコットランドのグラスゴーで生まれた。
父ウィリアムと母マーガレットは1963年にジョージ、マーガレット、マルコム、そしてアンガスという4人の子供を引き連れて家族でオーストラリアノシドニーへ移住する。

 この時、既に成人していた長男のアレックス(1938年生まれ)だけは音楽の道を志すため、イギリスに留まった。後にアレックスはグレープフルーツというバンドベーシストとなり、ビートルズのバックアップも受けてデビューする。
さらにバンド解散後もセッション・ギタリストとして音楽業界で仕事を続けた。
次男のジョージ(1947年生まれ)も高校時代から音楽活動を始め、イージービーツというバンドのサイド・ギタリストとしてデビュー。

これはオーストラリア国内では60年代後半に数々のNO.1ヒットを放ち、イギリスでもブレイクする成功を収めた。
バンドは1970年に解散するが、ジョージは同僚だったリード・ギタリストのハリー・ヴァンダと組んで、裏方として活躍する。後にこの2人にマルコム、アンガスが加わったマーカス・フック・ロール・バンドというスタジオ・セッション的なグループを立ち上げた事もあった。

さて、そんな兄たちの影響を受けて育ったアンガスも自然と音楽の世界へと進んでいく。三男マルコム(1951年生まれ)もヴェルヴェット・アンダーグラウンド(ルー・リードが在籍した有名バンドとは無関係)というバンドで活動。
アンガスは初めにカンタッキーというバンドに加わるが、ほどなくしてマルコムと合流。そして、1973年11月にAC/DCを結成する。交流/直流というこの風変わりなバンドの命名は姉マーガレットによるものだという。
電化製品の表示によくあるAC/DC(交流直流兼用)に由来し、掃除機のように騒々しいという意味でも付けられた。


オーストラリア国内でのデビューへ

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AC/DCはアンガスとマルコムのギタリスト2人に、ラリー・ヴァン・クリート(b)、コリン・バージェス(ds)、そしてデイヴ・エヴァンス(vo)というラインナップでスタートする。
1973年12月31日にシドニーのチェッカーズ・クラブでのニュー・イヤーズ・イヴ・コンサートでファーストライブを行う。が 早速この頃からメンバー・チェンジが始まり、ドラムやベースの顔ぶれが変わっていく。EMIとオセアニア地区の配給契約を結んでいたローカル・レーベル、アルバート・レコードとのディールがまとまり、デビューシングル「Can I Sit Next To You Girl」(74年)をリリースした時にはベースがロブ・ベイリー、ドラムがピーター・クラックに替わっていた。直後にオーストラリア国内ツアーを敢行するが、その最中に人間関係の亀裂が生まれ、デイヴが脱退する。
替わってヴォーカリストの座に就いたのが彼らの機材を運ぶトラックの運転手をしていたボン・スコットだった。彼は国内でいくつかのバンド経験をもつシンガーでもあったのだ。

さらにドラムがフィル・ラッド、ベースがマーク・エヴァンスに替わると、AC/DCの顔ぶれは落ち着いてくる。ちなみに既にこの時点でアンガスのスクールボーイ・スタイルの衣装は確立され始めていたが、これも姉マーガレットのアイデアによるものだという。


ワールドワイドでのブレイクへ

1975年2月にデビューアルバム「ハイ・ヴォルテージ」、12月にセカンドアルバム「TNT」をどちらも元イージービーツのハリー・ヴァンダ&ジョージ・ヤングのプロデュースで立て続けにリリース。
2枚とも全豪チャート1位を獲得し、オーストラリア国内での人気は急上昇していく。
1976年にはアトランティック・レーベルとワールドワイドでの契約が結ばれる。
先の2枚のアルバムから楽曲を抜粋した編集盤が「ハイ・ヴォルテージ」のタイトルで1976年4月にイギリスで発売、さらに10月にはアメリカで発売された。
その間、6月に本格的なイギリスツアーを行うとAC/DCは大人気を博し、特にアンガスのギターとパフォーマンスに注目が集まる。
その年の終わりには3作目の「悪魔と地獄」(76年)を豪州と欧州で発売。翌年の3月には4作目「ロック魂」(77年)もリリース。9月から初の本格的なアメリカツアーも敢行し、海外でも着実な足固めをしていく。

そして5作目「パワーエイジ」(78年)とライブ盤を経て6作目の「地獄のハイウェイ」(79年)で初の全米チャート入り(17位)を果たし、AC/DCは世界的な成功を収めた。


人気絶頂~低迷~再ブレイクへ

ところが突然の不幸が彼らを襲う。1980年2月19日、飲酒が原因でボンがロンドンにて逝去する。看板シンガーを失ったAC/DCは解散の危機に陥るが、元ジョーディーの英国人シンガー、ブライアン・ジョンソンを迎えてバンド再生を図る。ボンが歌う予定だった新曲をブライアンの歌声ですぐさまレコーディングして、1980年7月にボンへのトリビュート盤として7作目「バック・イン・ブラック」を発表。するとこれが全英チャート1位、全米チャート4位を記録する大ヒットとなり、現在までの売上枚数が全世界で4200万枚を超える彼らの代表作となる。
次の「悪魔の招待状」(81年)で初の全米チャート1位を獲得すると彼らの人気は不動のものになったかに見えた・・・・。
しかしこれを頂点に人気は徐々に下降し、フィルのバンド脱退などもあり、80年代後半までやや低迷の時代を迎える。
ここから再び上昇するきっかけになったのが、久々にヴァンダ&ヤングをプロデューサーに迎えたアルバム「ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ」(88年)。これをステップに次作「レイザーズ・エッジ」(90年)が全米、全英両チャートで久方ぶりにトップ5入りを果たす。1994年にはフィルが復帰し、以後はかつてほどのハイペースではないものの、定期的にニューアルバムをリリースし、確実にチャート上位を賑わしている。

特に2008年発表の「悪魔の氷」は英米を含む世界29ケ国で1位を記録し、根強い人気を印象づけた。80年代からはオランダに居を移し今や50代となったアンガスだが、ステージでは同じコスチュームと相変わらずの派手なアクションでパワフルなパフォーマンスはまだまだ健在である。

彼のプレイスタイルと機材

頭を振り回しチャック・ベリーのダック・ウォークばりに飛び跳ねながら演奏するステージ・アクションが あまりにも強烈な印象を与えるが、そのプレイ内容は至ってオーソドックスで堅実なものである。
安定したリズムのリフ、ブルースをベースにしたロックンロール&ブギ・スタイルのソロ・プレイのどちらも一級品。
愛用のギターはもちろんギブソンSG。デビュー以来これを使い続けている。もはやギブソンSGといえばアンガス・ヤングといっても過言ではないだろうか。
アンプもギブソンと相性のいいマーシャル。

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